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ナルセコーポレーションの歩み

ご挨拶

モノづくりからコトづくりへ。
人が集い、地域を豊かにしていく。

 

こんにちは、ナルセコーポレーションの四代目社長の成瀬日出登です。弊社は今年、おかげさまで創業100周年を迎えることができました。総合建設会社として住宅を含めた建築や土木など、文字どおり地域のインフラを支えるとともに、地域の皆さまから支えられてきた100年間でした。関わりのあった全ての皆さまにあらためまして深くお礼申し上げます。
ただ一方では、地域を支え、支えられてきたとはいえ、私たちの仕事は社会の基盤をつくり、守っていくという多くの皆さまにとっては姿の見えにくい存在であったのも事実ではないでしょうか。次の100年のスタートとなる今年からは、地域インフラを支える黒子としての役割だけでなく、自らを地域に開き、これまで以上に地域の皆さまとのつながりを意識した取り組みをおこなっていきます。住宅や施設を通して個々の皆さまの暮らしをより豊かなものにしていくお手伝いをおこなうとともに、豊かな暮らしの価値観をより多くの方と共有していきたいと考えています。単なるモノづくりに留まらず、コトづくりをおこない、そして、人とつながることで地域全体に豊かな暮らしの価値観を広めていきたい。モノづくりに人が集まり、つながることで新たなシナジー(相乗効果)、シーズ(種)が生まれることを確信しています。これまで100年のモノづくりを踏まえ、次の100年は、“顔の見える”地域に必要とされる存在を目指していきます。

代表取締役 成瀬日出登

 

四代目 成瀬日出登
四代目 成瀬日出登

大正10年、成瀬組が誕生しました

 
初代の成瀬徳治が安城に「成瀬組」を創業したのは、大正10年(1921年)のこと。建設の資材となる木材や石材を運ぶ個人営業の請負師として第一歩を踏み出しました。
当時の安城は日本のデンマークと呼ばれる先進的な農業地帯でした。地域発展の礎となったのは、明治22年(1889年)に開通した明治用水です。それまで、この一帯は安城ケ原という何もない原野でした。1820年代、地元の豪農・都築弥厚が水路の必要性を唱えて測量を実施しました。その後明治期に入ってから、伊豫田与八郎と岡本兵松の2人が都築の測量記録と思いを受け継ぐ形で用水を実現させます。以降、周辺一帯では開墾が進み、日本有数の農業地帯へと発展しました。まさに、明治用水という社会インフラが地域の繁栄を生み出したのです。
明治の後半になると、鉄道の敷設が始まりました。明治24年(1891年)には東海道本線の安城駅が完成。大正年間には愛知電気鉄道(現在の名鉄=名古屋鉄道)や碧海電気鉄道(同)が次々に開通し、安城の市街地が形成されていきました。初代の徳治が当時の鉄道の枕木を運んだ、という話を聞いたこともあります。
とはいえ、その後昭和に入ってもいわゆる公共事業は少なく、今日のような建設業の仕組みも整っていません。前近代的だった時代のなかで、徳治は苦労しながら少しずつ事業を大きくさせていきました。会社に製材所を併設して丸太の加工を行い、建設現場への資材の供給さらには施工の分野にも手を広げていきます。下請けの協力会社に株券で支払うような厳しい時期も体験しながら、実績を積み重ねていきました。
 

初代 成瀬徳治
初代 成瀬徳治

黎明期から発展の時代へ

戦後復興と共に迎えた飛躍の時期

 
太平洋戦争が終わり、日本の社会は大きく転換します。街の復興を担う建設業の在り方も新たに整備されました。建設業法が昭和24年に制定され、工事を請け負う会社は建設業の許可を得ることが定められました。徳治は、昭和25年(1950年)にいち早く株式会社成瀬組を設立。同年、初めての建設業登録を行いました。今日に至る総合建設会社としての成瀬組の歩みは、ここから始まります。
戦後の国民が夢に描いた文明的な生活を実現させるには、インフラが必要です。徳治には、安城を中心とする地域の建築・土木工事を通して、新しい国土をつくっていくのだという使命感と高揚感があったことでしょう。復興需要の拡大に伴い、成瀬組が受注する公共事業も増えていきます。木造の学校から橋梁、道路、護岸などの工事まで、建築から土木に至る幅広い事業を手がけるようになりました。昭和38年(1963年)に完成した、当時の雇用促進事業下管池移転就職者用宿舎の団地はその一例です。
徳治は、地域の人々に成瀬組を知っていただくことが重要と考えていました。時には赤字を覚悟で受けることも辞さずに、積極的に仕事を請け負ったといいます。成長する時代の追い風を受けて、成瀬組は大きく飛躍していきました。
 

雇用促進事業下管池移転就職者用宿舎
雇用促進事業下管池移転就職者用宿舎

存続する組織の体制を整えた二代目

 
日本が高度経済成長の真っ只中にいた昭和40年(1965年)、二代目の成瀬敬一が社長を継ぎました。敬一の功績は、それまでイケイケどんどんの姿勢で伸びてきた成瀬組の組織を現代社会にふさわしい姿へと整えた点にあります。将来に向けて存続していく組織として、成瀬組の基盤を固めていったのです。
 
信頼できる企業として認められるには、人材の育成が重要になります。個人の充実があってこそ、良い仕事が生まれる。そして「人」を育てるのは「組織」だと敬一は考えていました。給料体系や保険、退職金、労災をはじめとする賃金・福利厚生の仕組みを整備。社員1人ひとりが安心して仕事に取り組み、家族も含めた幸せの基盤を提供できるように組織を整えました。
高度経済成長の後にはオイルショックや建設冬の時代と呼ばれる停滞期もありましたが、基本的には公共でも民間でも建設投資が右肩上がりに伸びる時代が続いていました。成瀬組は着実に実績を重ねながら技術力とノウハウを蓄積し、官民の発注者から高い評価を得る会社へと成長しました。
二代目・敬一の晩年に当たる平成4年(1992年)、成瀬組は新たな一歩を踏み出します。株式会社ナルセコーポレーションへと社名を変更し、併せて本社を現在地に移転しました。
 

二代目 成瀬敬一
二代目 成瀬敬一

「よろず屋」として、地域の幅広い建設ニーズに応え続ける

どの時代にも必要とされる会社に

 
ナルセコーポレーションは、建築事業と土木事業を軸に成長してきました。最近は、新築だけではなく維持管理に対する需要も増えています。官公庁から企業、あるいは個人のお客様に対するニーズに幅広く応えられる技術の総合力が、私たちの強みです。
成瀬介宣(現会長)が三代目社長として率いてきた平成7年(1995年)以降の20年余りは、それまでとは一転し、「失われた20年」とも呼ばれる経済低成長の時代に重なります。国内の建設投資は、平成4年(1992年)の約84兆円から20年間で45兆円レベルに縮小。その一方で、環境への配慮や安全性の確保など、建設業が心を配るべき内容も幅広くきめ細やかになっています。
こうしたなか、ナルセコーポレーションは組織をスリム化しながら体質改善に努めてきました。職人を外注化して自社組織を身軽にし、変動する発注者のニーズに柔軟に対応できるようにしたのです。
もう1つ心がけたのは、施工分野に関する専門性を持たないことです。例えば建築工事なら学校、集合住宅、高齢者施設というように、時代によって建設需要の多い分野は移り変わります。1つの分野に特化すると一時的には強みを発揮するかもしれませんが、10年後にその需要が続くかどうか分かりません。
建設業に限らず、世の中の産業には栄枯盛衰がつきものです。どうすれば今後も長く生き残っていけるだろうか。考えていくうちに行き着いたのが、地域の多様なニーズに幅広く応える建設業でいることです。あえて特定の専門分野を持たず、いわば「建設のよろず屋」になる。どのようなニーズにも対応できる総合性を持つことこそ、いつの時代にも地域の皆様から必要とされ続けるための道だと考えています。
 

三代目 成瀬介宣
三代目 成瀬介宣

 

技術の総合力

社員1人ひとりが担う「信頼、責任、安全」

 
地域で必要な存在でいるために、日常業務のなかで忘れてはいけないことが3つあります。それは信頼、責任、安全です。
私たち総合建設会社にとっての「信頼」は、請け負った仕事を1つひとつ高い品質で仕上げることから生まれます。予算と納期を見据えて適切な工程を作成し、職人や資材を手配し、資材や工事の品質を適切に管理していく…。多岐にわたるこうした作業の積み重ねを通して、私たちは官民の発注者から「ナルセに任せれば大丈夫」という評価をいただいてきました。でも、ひとたび間違いを犯してしまえば、その信用は一気に崩れます。日々の業務に対して真面目に取り組んでいく以外、信頼を保ち続ける方法はありません。
「責任」とは、1人ひとりの社員が責任感をもって仕事に臨むことです。そこでは、痒いところに手がとどくような細やかさでお客様のニーズをくみ取り、その期待に応えていく姿勢が求められます。
「安全」とは、現場の安全確保だけでなく、安城を中心とした地域の安全の確保を意味しています。ナルセコーポレーションは愛知県や安城市と防災協定を結び、大雨時の緊急対策や道路の日常的な保守修繕などを担ってきました。防災の要として、地域の皆様の生活と産業を守る。これは大正の創業以来、街のインフラ整備に携わってきた当社が果たす重要な役割と任じています。

真面目に誠心誠意、尽くします

 
建築・土木事業を通してナルセコーポレーションが担うべき信頼と責任、そして安全。この3つに共通するのは、二代目も重視していた「人」の育成の大切さです。
現場で一品生産する建設業では、担当者が「自分で考える力」が重要になります。なぜ、こうなるのか。どうすれば工程を合理化できるのか。天候や気温・湿度といった自然の状態を読み取りながら、現場ごとに異なる条件に見合った準備と工事を進めることが必要です。教科書通りの知識にとどまらず、それぞれの担当者が日々進化していくことが求められるのです。
ナルセコーポレーションは、それぞれの現場で得たノウハウを社内で共有する仕組みを日常作業のなかに取り入れるなどして、たゆまぬ業務改善に取り組んできました。社内外の研修や見学会など、新しい知識を吸収する機会への参加も積極的に後押ししています。
従業員が真面目に、お客様に誠心誠意に尽くしていく姿勢に、ナルセコーポレーションの真髄があります。私たちはこれからも日々の積み重ねを通じて、環境と調和した地域の豊かな暮らしづくりに貢献してまいります。

環境視点から生まれた住宅づくり

自然や住む人に優しい家を求めて

 
創業80周年を迎えた平成13年(2001年)、ナルセコーポレーションは建築事業と土木事業という大きな2本柱に加えてもう1つの軸を据えました。住宅事業です。
それまでも住宅を手がけていましたが、ほかの設計事務所の設計図に基づいて施工するのが当社の基本的な役割でした。しかし次第に、自分たちの思いをそのまま反映させた家づくりをしたいという気持ちが高まってきたのです。そんな時に出会ったのが、自然素材を用いた家づくりを行う四季工房です。
福島県に拠点を置いて活動する四季工房は、自然素材にこだわった家づくりに取り組む工務店です。特徴は、季節によって家全体が呼吸するエアパス工法を採用していること。自然に対する負荷を減らし、住む人にも優しい家づくりは日本の風土にふさわしく、「環境との対話」をうたうナルセコーポレーションの考え方にも合致しています。福島県を訪れた私たちは「探していた家づくりはこれだ」と思いました。

着実に育てた住宅事業を四代目に引き継ぐ

 
早速エアパスグループに参加したナルセコーポレーションは、翌年の平成14年(2002年)、本社の敷地内にモデルハウスを建てました。家づくりに対する私たちの考え方を体現し、隅々まで本物の木を用いた「香りの家」です。
 
さらに平成20年(2008年)には、お客様のニーズにより近い面積を持つ「四季の家」を建設。事業を本格化させていきました。

以来、責任をもった仕事が可能な年間10数棟という規模で、地域の家づくりに取り組んできました。立ち上げ当初は、前社長(現会長)の成瀬介宣が事業部長を兼ね、成瀬恵子が統括部長として住宅事業の基盤を整えました。その後四代目の成瀬日出登(現社長)が事業部長を引き継ぎ、現在は青山が事業部長を歴任しています。
住宅や生活を取り巻く環境は時代と共に変化し、技術も日々進化していきます。四代目を中心とするナルセコーポレーションの住宅事業部は、明日を読み、お様の声に耳を傾けながら真摯に家づくりに取り組んでいきます。次の世代に向けて責任を担っていくのが私たちの役割なのです。

明日への継承もナルセの力です

 
私たちがつくり上げる建築物や街のインフラは、瞬間的な流行りすたりに影響を受けるものではありません。何十年にわたって多くの人たちに使っていただくため、長い時間を生き抜く耐久性や耐用性が求められます。ナルセコーポレーションは、多くの経験を通して時間に耐える技術を進化させてきました。おかげさまで100年近く積み重ねて来られた実績こそ、お客様からの信頼の証と重く受け止めています。
建築・土木の分野でもう1つ大切なのは、工事を担う私たち自身がこれからも長く存続することです。
建物も街のインフラも、使い続けられている限り何らかのメンテナンスが発生します。適切な品質を備えた建造物を納期内に完成させるだけでなく、ライフサイクルを通して責任を担う体制を整えておく。それが、総合建設会社の責務です。そのためには、お客様や地域とのつながりを受け継ぐ人材の育成が欠かせません。
家づくりの場でも同様です。近年は、優秀な技術を持った工務店でも後継者不足に悩まされる会社が少なくありません。家を建てようとするお客様が、将来のメンテナンスに不安を抱かれるのも無理はないでしょう。
その点、ナルセコーポレーションは幸いにも「受け継ぐ人」に恵まれてきました。三代目社長であった成瀬介宣が会長を務め、四代目の成瀬日出登が代表取締役に就任しました。社内にも社歴30、40年の技術者たちをはじめとする経験豊かで頼もしい人材が揃い、明日を担う若手を育てています。
100年という年月に培われた人と技術を明日につなげていくため、ナルセコーポレーションは社内一丸となってこれからも精進していきます。

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